プロフィール

 ブログに興味を持っていただきありがとうございます。

すこし、私のことについて紹介させてください。

ちょっと、長くなるかもしれませんので、それでも目を通していただけるなら

コーヒー、紅茶でも飲みながらお付き合いくださいね。

私の生い立ちは

私は、京都のとある田舎町で生まれました。

出産予定より少し早く生まれたせいなのか、体が弱かったそうです。

小学生の頃

小学生の頃になると、記憶もしっかりしてきて、今でも覚えていますが

病気がちで、学校に行けず家で寝ている記憶のほうが多いです。

そんなとき、母がリンゴをすりおろしてくれたものを、よくてべていました。

そのせいか、すりおろしたリンゴが大嫌いです。

体が弱かったので、空手を習うよう父に勧められました。

師範は、とても怖くて小学校の友達も私も、殴られて血を流していました。

次の練習で、血のついたままの道着を着用していたら、

「不謹慎だ!」と殴られる始末でした。

いまなら、裁判沙汰ですよね!でも、昔はそんなのが当たり前でした。

気がつくと、小学生を卒業する頃には、全国の平均的な小学生の

体力を大きく上回る身体能力を身につけていました。

中学生の頃

中学生になって、軟式庭球部に入部。理由は入学した年にできた

新しい部活で、先輩後輩もなく自由だと思ったのと、女子テニス部員の

スカートの中身が気になるお年ごろだったせいでしょうか?

とにかく、テニス部に入部しました。

ところが、顧問の先生は高校で全国大会まで出場した、本気のテニスバカ

でした。1年の最初の夏で130人近くいたテニス部員が30数名にまで激減!

私も脱落しそうになりなしたが、なんとか持ちこたえました。

夏休みの朝練では、特訓と称する顧問の先生のしごきで退部する生徒が

すごく多かったのです。しごきが終わると、そこらじゅうでゲロが・・・

それに、砂をかけてスコップですくって処理したのをよく覚えています。

そんなしごきも、徐々に堪えなくなってきて、気がつけば、テニスの

強豪校に!練習試合では、中学生では相手にならず、高校生や社会人を

相手に練習していました。

この頃には、体が弱い子というイメージは全くありませんでした。

高校生の頃

高校生になって、やっぱりテニス部に入部。中学生の頃練習試合したことも

あり、私はめちゃくちゃ歓迎されました。

ですが、練習は物足りず、先輩たちとの実力差はあまりにも大きすぎて

私は、いつしか自分の実力を過信するあまり、練習も怠けるようになりました。

全国には、私以上の選手はたくさんいるのに、若くて無知な私は、自分が

イチバンだと錯覚し、自分で潰れていきました。結局自分に克てなかったんです。

中学の頃、顧問の先生が言っていた、「最大の敵は自分」という言葉を、忘れ

自分の実力を傲り、最後は自分に負けたんです。

もう取り戻せない、高校の3年間を失った瞬間です。

専門学校に入学

高校生活は、テニス部を退部してからは、自堕落な学園生活をだらだら送り、

勉強もあまりせず、学力も平均以下だったのではないでしょうか?

よくもまぁ、ここまで堕落したなぁと、今でも後悔しかありません。

そんな私は、大学受験も失敗して、働きたくないという理由で、専門学校に

入学しました。入学動機がいい加減なので勉強は適当。

そんな私が、就職先を見つけるのは困難を極め、ようやく見つけた会社は

IT業界でした。

社会人になった私

社会人になって、勉強してこなかったことを猛省しました。

とにかく、数学の専門知識がまったくなかった私は、仕事がまったく出来ず、

ホームシックになり、いつも会社を辞めたいと思いながら出社していました。

でも、「最大の敵は自分」という言葉の意味を理解し、なんとか踏ん張りました。

そんなこんなで、5,6年も経つ頃には、顧客先をいくつも任され、全国を

出張でまわり、それぞれの客先では、下請けの業者さんなどに指示をし、

営業部員と一緒に客先を訪問して、技術的な側面で、営業をサポートする

責任ある立場に。

ある客先での出来事が、人生の転機に

ある客先の方と、現場視察に行くことになりました。現場というのは

土木工事現場のことです。

なぜ、IT業界なのに土木?とお思いでしょう。

実は、私の担当は、官公庁向けの土木積算システムの開発という仕事

をしていました。

そういった経緯で、とある県の土木部の職員の方と、県の土木工事現場に

視察に行くことになりました。

そこで、大きな衝撃を受け、その後の私の人生を大きく変えてしまいました。

私は、土木工事の仕事をしたくなったんです。某スーパーゼネコンのCM

ではありませんが、地図を変える仕事です。

もうすぐに、行動に移し会社にも辞表を提出し、土木工事の技術者の

国家試験にも合格し、土木施工管理技士になりました。

人生2度めの転機が!

日本人の皆さんの記憶に刻まれた、2011年3月に起きた福島第1原発の

爆発事故の除染工事で、森林除染の施工管理で福島県に赴任していた

2014年の冬、人生で2度めの転機が訪れます。私は、体調不良で、病院に

受診しに行きました。血液検査の結果、膠原病の疑いがあると言われました。

膠原病は、診断が難しい病気で、専門医も少なく国の難病指定を受けた

不治の病気です。

私は、全身の倦怠感、発熱、皮膚の紅斑、耳鳴りやめまいなどに堪えながら

任期を終え帰省しました。

膠原病の治療に専念する

膠原病は、自己免疫疾患が原因であることがわかっています。

治療法は、対症療法しかありません。完治はしない不治の病気です。

私は、寛解するまで2年かかりました。今でも免疫抑制剤は服用しています。

副作用が強い薬ですが、しかたありません。

闘病中は、家族の支えがあったからこそ乗り越えられました。

仕事、家事、子育てすべてを家内に任せ、家内が頑張ってくれたおかげで

治療に専念できました。子どもたちの存在も治療に専念できた大きな理由です。

2016年の秋には、ようやく症状も安定して寛解の診断をいただけました。

いまでは、膠原病患者であることを言わない限り、誰もわからないと思います。


自己紹介

自分の写真
2014年末、膠原病を発症し以来、コツコツと投資を実践。最初は会社の持株会だけでしたが、株価が爆上がりしたため一部を現金化。それをもとに不動産投資をはじめる。今は一番大事にしている『家族との時間』を最優先にゆとりの生活を送っています。もちろん仕事は続けています。投資を始めてから、考え方が変わり、仕事の取り組みも変わりました。結果、膠原病を発症した2014年から比べると、会社員の年収が240万円アップしました。投資のおかげで、投資をしなくてもゆとりの人生を送れる年収に到達。微妙な心境です。

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